親が亡くなった日にインフルエンザを発症した 3

病室についた時には父の酸素呼吸器は外されていました。

同時にすべてを理解しました。

 

私達家族は無言で病室に立ちすくむしか無く、姉夫婦が入ってくるまで無限にも等しい無音を過ごしたと思います。

 

姉が病室に入り、同時にすべてを理解し、泣き崩れるまで、私達はただの石像でした。

 

それからは淡々と事務処理のごとく行われていきました。

死亡確認。葬儀社への手配。部屋に残された持ち込み品の整理。

 

父の遺体は葬儀社の方に丁重に扱われ、車へと運び込まれ葬儀社へ。

私達はそれを車で追っていく。

 

まだ何も実感ないまま只々後を追うだけでした。

親が亡くなった日にインフルエンザを発症した 2

私の喉はガラガラでまともな状態ではありませんでした。

 

父が亡くなる前日に、病院から呼び出され、午前深夜から病室で父を見守っていました。

その時から喉の様子はおかしくて、マスクを何度も濡らして父の看病に当たりました。

今思えばあの時早々と退出して、医療機関にかかるべきだったのではないかと。

 

いまでは自責の念を感じます。

 

恐らく既に私はインフルエンザに感染していたのでしょう。

なのにもかかわらず、半日にもわたり私は、肺機能が末期の父に関わり続けてしまいました。

 

死因は肺炎と診断されましたが、あの時私が関わらなければもう少し、もうちょっとだけでも生きたのではと今でも考えてしまいます。

親が亡くなった日にインフルエンザを発症した

午前6時に電話が鳴った。

電話を受けたのは母で発信元は姉だった。

 

「病院から電話があって、お父さんがもう間もないかもしれない」

 

母親から叩き起こされ私達は病院へ向かった。

しかしこの時私と家族には危機感がなかった。

なぜなら父の危篤は今回が初めてでは無いからだ。

 

もう半年にもなるだろうか、最初の危篤の知らせを聞いたのは。

 

私の父は末期腎不全で肺気腫も患っていた。

 

最初は念の為に、後々のために人工透析のシャントを作りましょうか

そういう話だった。

 

いざ人工透析のためにシャントの手術が終わったあと、父は急変した。

 

毎日のように肺炎に見舞われ、治るたびに肺炎になる。

日に日に父の体力は失われていきました。

 

ある日医者から言われました。

「今月が山かもしれない。年を越せるかはわからない」

 

医者から宣告を受け、会いたい親戚がいるかを聞きました。

最後にまともに会話できる間に親戚と別れを済ませました。

 

年明けから日に日に父は弱っていきました。

父の生死に向き合ってきた我々家族は意外にも冷静だった。

 

「ああ、ついにこの時が来たのか」

 

そう考えるぐらい余裕があった。

 

意外にも父は耐えた。喜ばしいことではあるが、人類の生への執着心を考えた。

 

数ヶ月前に医者から言われたことを思い出す。

「痛みに対しては、ものすごい耐性を持って耐えています」

 

物言わぬ父はひたすら耐えて生きているのだろうか。

そう考えた瞬間崩れ落ちた。

 

午前6時に電話が鳴った。

電話を受けたのは母で発信元は姉だった。

 

「病院から電話があって、お父さんがもう間もないかもしれない」

 

病室に入った時

 

そこには

 

酸素呼吸器外された父がいました。